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2021.07.01 歴史から学ぶ

まれびと

外部からの来訪者「まれびと」

和歌・茶道・華道・香道などの芸道は、すべて客をもてなすためのものだ。「まれびと」をもてなすところから始まり、「しきたり」として伝えられてきた。
共同体とは、同じ「しきたり」を守る人々と考える。しきたりは、年中行事だったり、礼法だったり、モノの形だったり、様々な形で存在する。だから、生きていく道しるべにもなる。

1.類似性が文芸を作り出した

民俗学者の折口信夫によれば、お互いに違っているように見える者同士に、共通点が発見されたときに、新しい意味が現れてくることを「類似性」という。古代人が生み出した最初の「文芸」は、おそらく謎々ではなかったか。

たとえば、「目があって見えないのもは、な~に?」・・・「ジャガイモ」

ジャガイモには芽があるけど、見えないからである。芽と目が同じ音だから、そこに「類化性能」が働いて、人体と植物が一つに重ねられ、人体と植物が一つに結び合った新しいイメージが発生し、それが楽しむことができた。

更に、比喩というのは、違う者同士を、ちがうもの同士を「類似性」でつなぐ技術である。異質なものを一つに繋ぎ、重ね合わせるところに出現する驚きや面白さが、詩歌の本質なのである。

喩(たと)えうたとは、心情を表に出さず、隠喩的に詠んだ歌で、多くは恋愛感情を詠む。

〈ぬばたまそのの梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを〉は女性を梅にたとえたたとえうたである。「比喩」の働きによって、現実世界の中にあるふたつ意味(梅と女性)の間で、はっとするような効果が作り出される。

 

「あの世」と「この世」との強烈な出会いをつなぐ働きを、霊がすることで宗教が発生する。「あの世」から、現実世界の「この世」への来訪者「まれびと」がやってくる。

この「まれびと」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者の折口信夫によって提示された。

「客人」を「まれびと」と言い換えて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。

この世に生きている時間などはほんのわずかに過ぎないけれど、それでも「この世」を包み込む「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくる。この事実を知れば、私たちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。

だから人々は、「あの世」からの来訪者である「まれびと」の到来を望んでいる。

仮面を着け、植物で全身をおおった精霊が、一年に一度だけの決まった時期に、村の裏にある洞窟から、人々が緊張しながら待ち受ける神聖な広場に現れる。ざわざわと体を揺すり、踊るように舞うように、「まれびと」が現れる。

人々の興奮は頂点に達し、精霊と一緒になった人々の心には、「あの世」との通路が開かれる。生きている人々と死者たちの霊とは一体となり、過去と未来が一つになったような、不思議な感覚があたりを包み込む。

このような不思議な祭りは、秋田の「ナマハゲ」や「登米」の水かぶりなど、日本列島のいたるところに見出せる。

 

芸能は「あの世」と「この世」をむすぶもの

能にしても歌舞伎にしても、日本の古典芸能と呼んでいるものの多くは、縄文時代のルーツを持っている。

能の演目の最初に現れる翁(猿楽も同じ)には、古代人が発達させた精霊信仰の表現に根ざしている。

「翁」は、別格の一曲である。物語めいたものはなく、神聖な儀式であり、「翁」は神となって天下泰平、国土安穏を祈祷する舞を舞うことから、能が始まる。

「この世」と「あの世」との間に、通路を開き、何者かが出現し、去って、通路はまた閉ざされる。その瞬間を表現したのが「翁」であると言われている。

古代人たちは自分たちが健やかに生きていけるためには、時々、通路が開かれ、そこを伝って霊力が「この世」に流れ込んでこなければならないと考えていた。

このような芸能者こそは、死と生にじかに触れて、二つの領域を言ったり来たりできる存在である。芸能者を「鬼」として表現している。

荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる「鬼」の存在を間近に感じるときに、共同体に生きている人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や疲労から立ち直って、再び健康な霊力に満たされ、生命の蘇るのを感ずる。

2.「まれびと信仰」から芸道は始まる

外部からの来訪者「まれびと」に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。その理由は経済的、優生学的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれる。

神は、遠くから時を定めてやってくる。つまり、まれに来る客だ。まれに来る人、すなわち「まれびと」だ。まれ人は長い旅をして、人間のもとにやってくる。

神からのメッセージを授けにやってくる。その時、神になることもある。神と人間の関係は、融通無碍である。

その神は人間によって供応され、再び神々の世界に帰っていく。それが祭りの構造だ。古代でも、現代の祭りのも「まれびと」はいる。

和歌・茶道・華道・香道などの芸道は、すべて客をもてなすためのものだ。「まれびと」をもてなすところから始まり、「しきたり」として伝えられてきた。

共同体とは、同じ「しきたり」を守る人々と考える。しきたりは、年中行事だったり、礼法だったり、モノの形だったり、様々な形で存在する。だから、生きていく道しるべにもなる。

「しきたり」は、言葉にだってある。枕詞をなぜ使うかと言えば、それは言葉のしきたりだからだ。枕詞を使うことによって、その歌は過去との連続性を保つことになる。過去に生きた祖先と言葉のしきたりを共有することになる。

『あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり』小野老(オノノオユ)

「枕詞」は、決まった言葉を導き出す。同時に和歌にリズム感を与えたり調子を整えたり、また、過去に遡って強調する効果を生み出すという意味も持つ

ひさかたの のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ』紀友則

沙羅双樹の花

3.「まれびと」作戦

30年ごろ、スサノオの息子のニギハヤヒは、琴平で瀬戸内沿岸地方を統治していたが、スサノオの遺命を受けることにより、近畿地方の統一に乗り出した。

ニギハヤヒは、有力豪族がひしめく近畿地方を統一するために、「まれびと」を近畿地方の各国々に送り込み、その子孫の協力によって国を統一することを考えた。

人々は、近親交配を続けていると繁殖能力が低下し、その種は滅びることを本能的に知っており、小さな集落の人々は外部からやってきた有能な男と、集落内の娘を結婚させて外部の血を入れることを行なっていた。

外部からやってくる人間はそのほとんどが男であるために、外部の男と、集落内の女の結婚するのがほとんどであった。この男たちを「まれびと」と呼んでいた。

「まれびと」の条件としては、優れた先進技術を持っていること、運動能力に優れていること、心優しいことである

これらに優れた若い男が、小国家を訪問すれば、大抵の国では「まれびと」として受け入れてくれる。「まれびと」作戦は、この条件を満たす「まれびと」を探すことである。

ニギハヤヒは、北九州各国から有能な若い男子を集め、「まれびと」集団として大阪湾岸地方に乗り込み、それぞれの国に分け入り、子孫を設けた。

しかし、大阪湾岸地方に「まれびと」として入り込んだとしても、それらの小国家を倭国に加盟させるのは難しいと予想ので、倭国とは別の国を作って、機が熟したなるべく早い時期に、倭国と合併をするという計画も話し合われた。

ニギハヤヒ自身は日下から大和に入り,国王のナガスネヒコの妹と結婚し,倭国とは別の国(ヒノモト:日本)を作ることになった。

4.日本国の誕生

ニギハヤヒの死後、各豪族間で主導権争いがおこり、日本国は乱れ始めた。このままでは,いずれ,戦争が起きると考えた人々は、日本列島を一つの国にまとめようと考えた。

「ヒノモト:日本国」の後継者をニギハヤヒの末子であるイスケヨリヒメ(伊須気余理比売)と、倭国はスサノオの孫のサノノミコト(狭野命)との政略結婚による両国の大合併を提案され、多くは賛成した。

しかし、ヒノモトの一部の人々は反対派を説得したが納得しない。時機を逸してはならないので、AD78年、サノノミコト(狭野命)が大和に行くことになった。南九州各地の一族に挨拶を済ませ、美々津(ミミツ)海岸より出港した。 これが神武東征である。

サノノミコト(狭野命)は日下から大和に入ろうとしたがナガスネヒコ(長髄彦)に追い返された。狭野命は紀伊半島南部に迂回し、「まれびと」の子孫である吉野川流域、宇陀市周辺の豪族たちを味方に付け、反対派を打ち破り、AD81年大和進入に成功した。サノノミコト(狭野命)は、大和に入り、イスケヨリヒメ(伊須気余理比売)と結婚式を挙げ、大和朝廷初代神武天皇として即位した。

中沢新一著 古代から来た未来人


コメント

たまたま、先代社長の遺影の下に、能の「翁」の人形が置いてあった。折々に、会社泰平、社内安穏を祈祷する舞を舞ってくれていたのだろうか。

  • 生命と創造の根源は、この世界を延長していったところにはなく、この世と存在様式が異なる他界に見いだせる。その詩世界が「まれびと」を通して、時おり現出してくる。そこに芸能と文学が生まれたという。
  • さらに、折口は人間の心の奥で働いている「類化性能」が文学や宗教の発生にとって重要なものと考えた。
  • 神のおおもとには、共同体の内に同質な一体感をもたらす先祖の霊を求めるはずである。
  • 一方、民俗学者の折口信夫は、霊が共同体の「外」からやってきて、何か強烈に異質な体験をもたらすと考えた。その霊こそ「まれびと」とした。
  • 「比喩」の働きが、この世の現実と「あの世」に結び付けようとするとき、宗教の世界に入っていく。
  • 芸術とか宗教は、この世にないものをあるがごとく見せるものである。
  • 「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、「まれびと」なのである。

5.「まれびと」 『ウィキペディア(Wikipedia)より』

「まれびと」、「まれびと」(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。

外部からの来訪者(異人、「まれびと」)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。その理由は経済的、優生学的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「「まれびと」信仰」が存在するといわれる。

「「まれびと」」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者の折口信夫によって提示された。彼は「客人」を「「まれびと」」と訓じて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。折口の「まれびと」論は「国文学の発生〈第三稿〉」(『古代研究』所収)によってそのかたちをととのえる。右論文によれば、沖縄におけるフィールド・ワークが、「まれびと」概念の発想の契機となったらしい。

常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという。現在では仏教行事とされている盆行事も、この「まれびと」信仰との深い関係が推定されるという。

「まれびと」神は祭場で歓待を受けたが、やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることになった。『万葉集』東歌や『常陸国風土記』には祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されている。さらに時代を降ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となった。

来訪神の「まれびと」は神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。

オーストリアの民族学者であるアレクサンダー・スラヴィクは、友人の岡正雄により日本における「まれびと」信仰の実態を知り、ゲルマン民族やケルト民族における「神聖なる来訪者」の伝説や風習と比較研究した。

 

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